『ADHDの正体ーその診断は正しいのか』岡田貴司著(新潮社)を読んで

192ページ時以降も含めて私にとって本当に頷けることの多い本でした。

育児や子育てを子どもに重きをおいて手をかけて大切にし信頼関係を築くこと、この問題は今の日本では大変実行が困難になってきていると感じます。

私自身が進んで子育てをしようとしたのは50年前の31歳を過ぎてからで、理由は夫の希望がはっきりしてからでした。夫は37歳、そして専業主婦が何とかできた時代だったことも子どもにはよかったと思っています。それは夫婦の組み合わせにもよると思うのですが、我が家の場合、家族内分業化だったと思います。

しかし夫は封建的な考え方の持ち主で、直接収入に結びつかない労働はどうしても外での働き手には、しっかりとは認められなかったようでした。

ことに困難な育児を理解し相補しあうのは成熟した大人になっていないと、冷静にはいかないようです。だいたい困ったことになっていても受診や相談に行けません。診断のための詳しいテストや問診にたどりつけないことが多いです。テストや問診はあくまでも一つの考え方にしかすぎないのに、状況を決定づけられるものとみなされやすいと感じます。検査や診断で明らかになることが怖いのかもしれません。振り返ってみれば私も当事者家族としてかつてそうでしたからよく分かります。

娘夫婦の場合は夫が理解できない状況でした。単身赴任で常に一緒にいなくて協力できないため、説得がむずかしい、常に仕事優先でした。コミニケーションがうまく運ばないのは当然でした。

5年ほど前読んだ内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)の前書き9ページを思い浮かべています。

なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう?なぜ今日まで「知らずに」きたのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?

それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。

「知りたくない」からです。

より厳密に言えば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。

無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の結果なのです。

 

このことばに随分動揺しました。でもその通りです。

しかしそれぞれ立場があることも確かです。今の世の中では親であることが難しいです。欠陥のない穏やかな家族の子育てが理想でしょう。本書178ページのように家族構成の変化や不和によって子どもが安定できなくなるのは明らかです。多くの臨床経験から生まれた結論でしょう。

いつの時代も持って生まれてものか、働きかけか、どちらが多く人格を形成するかが問題にされてきました。最近は、本書のように働きかけに大いに工夫が必要と感じております。そうは言っても本質的にどこか親に似てしまうのですが…。