思い その9

最近分かったのですが、自分の書いたものが意外に遠くの方まで読んでおられると知って驚いたことです。それと子供に育ちや興味の持ち方に偏りがあって苦心しておられる方が意外におられることです。
私はもう80歳を幾つか超えたのですが、まだこの課題の中で生活しているように感じています。それは50年前の子育てから始まりました。子供ははっきりした症状がありましたから分かりやすかったのです。言語の能力が著しく育ちにくかったのです。しかし一見賢そうにみえるこのような子供の理解に苦心しました。
この不思議ちゃんを分かるのは大変なことでした。こんなにも学びと試行錯誤と工夫を求められるとは思いもよらなかったことでした。しかも、一人ひとり欠損している事柄は全く異なるようなのです。
言葉が遅かったのは下の子なのですが、上の子もまた違った偏りを持って成人しました。育てる大人が子供の実際の姿を見極めることはとても難しいことです。
しかし、私にも生きにくい、弱い習得できていない部分がある事、意識してやりすごしてきた部分がおおいにあります。

この自分の足りなさや弱さが、子供を理解するのに役立ったところがあった気がします。そうでなければ、どうしてもできないこと、身体的に過敏なこと、そして反対に鈍感であることなど観察できなかったかもしれません。
私もエネルギーを使ったのですが、子供もそれに劣らず強く対してきのです。もう今となっては体力気力がなくて残念ながら、孫のためにはできません。特定の働きかけが必要です。
自然に考えていては私の子供は多分今ほど言語を獲得できず、内言を持ち思考しえなかったと考えています。個人差があるようなのですが、このような特別なケアが必要な子たちがいることは確かです。