「安心感のケア」とはなんだろう その1

この問題はずっと私に付きまとい生活と共にありました。この問題を専門にして来た訳ではないのですが、実際問題として常に考える必要に迫られておりました。

いま発達に偏りがあって援助を必要としているひとびとの問題として資質と育て方のどちらを問題にするかで、大いに話題になっているようなのです。半世紀前にもこのような問題で自分が落ち込んだことを思い出しています。

親の誰もが自分の関わり方だけのせいで困難が起こっているとは思いたくないでしょう。養育者もされる側もなかなか実際の姿が見えにくい状態になりやすいように感じます。

親も人間です。自己弁護もしたいです。誰しも能力のばらつきや、限界があります。しかし、子どもの持つ生まれつきの感覚過敏から出ている事柄や要求に合わせられないことも起こります。

こんなことを書いたら顰蹙を買うかもしれないのですが、親子はある意味似ているようです。ですからどうしても問題が見えにくくなる気がします。親の基準に慣れてしまうようです。わしは母があまり行き届いたケアができない人だったと感じています。私はそれを受け継いだと思います。ただ、後から付け焼刃のような知識でそれを補ったのです。確かに私は情愛の深い人間ではありません。

BowlbyやFreudを読んだために懸命に実行しようとしただけです。人間はそんなに簡単に変われないです。私の次女は逆子、早期破水、仮死出産で、妊娠中から出産時の中でかなりのダメージを受けました。出生後ほぼ1週間対面させてもらえませんでした。結果彼女は五感のキャッチが全く正常ではなかったのです。4歳までほとんど声を出しませんでした。1年半前に生まれた長女の育ちを観察していて見えてくることは沢山ありました。

健常児として育っていない場合、理解するのが本当に難しいです。ことに知能が平均以上の場合どこまで能力が育って居るかどこが落ちているのか分かりにくいです。前にも書きました二人の子どもは、全く異なった発達経路を辿って仕事をしております。