81歳の挑戦

まず自分のことですが、現在81歳のおばあさんです。今は高齢者向け住宅に一人で暮らしています。

 

私自身振り返ってみると最初のつまずきは、例にもれず思春期に感じた生きづらさと、青春期の進路の迷いの深さです。時代は1950年代後半から1960年代前半で、当時私は美術教師を目指して短大に通っていました。

 

今思えば美術を選んだのも自分の視覚優位という特性からだったのかもしれません。元々絵を描くことは得意で対象物をデッサンすることもあまり苦労しませんでした。

 

短大卒業後地方都市で美術教師として三年間勤めました。職務は雑用も含めてこなせるのですが働いているうちに仕事に対して、そして生徒たち、ひいては自分自身についても気になる事が多い日々でした。

 

今ほどはっきりした意識はもてなかったのですが、一番考えていたのは自分の出自と、個々人の生き方への疑問です

 

その頃地方では集団就職が盛んで、教え子たちは卒業後右も左も分からぬまま関東地方へ向けて旅立っていました。このような状況に「果たしてこれでいいのか?」と悩んでいました。

 

このままここでは居場所を作りたくない、そんな思いで私は少しずつ勉強し始めた精神分析の方へ引き寄せられていきました。

 

私のような素人がとてつもないことを学ぼうとしたことが今になって解りますし、やはりおかしいことだったようにも感じるのですが、当時は必死でした。そして見つけ出した師、霜田静志氏に学ぶため、教師を辞して上京したのです。

 

「思い切ったことをしたものね」と娘からも言われますが、今やらなければ!という切迫感がありました。今よりも地域格差もありましたらから学びたいという一念で、東京で仕事を見つけ、働きながら霜田先生のところで学びました。

 

2年間は準備期間で、講座や読書です。その後2年ほど教育分析をうけました。今私の書棚に残っている本は、土居健郎の『精神分析と精神病理』とホルネイ・Kの『自己分析』くらいでしょうか。

 

しかし、分析が終わった後、学んだものを仕事として生かすことは未熟な私にはできませんでした。当時の「この年頃で結婚しないなんて」という周囲の勧めや世間体にもおされ、30歳で結婚しました。

 

結婚して2年後に長女、その1年半後次女が生まれました。今から50年程前のこの頃から私は甚だしく育てにくい子育てに直面して生きることになりました。

 

そこで予想外の形で独身時代の学びや体験がいかされました。当時発達障害は微細脳損傷(今でいうADHDやLD、発達性協調運動障害)とか母源病(自閉症スペクトラム障害)といわれ、専門書を探しては読み漁りました。特に内須川先生のインリアル療法、田口恒夫、鈴木昌樹の著書が参考になりました。相談に乗ってくださる先生もあり、自分でも工夫と試行錯誤の毎日でした。

 

残念なことに社会の理解はいまもそのころとそんなに変わっていない気がします。下の娘の場合は4歳まで泣き声しか出さなかったため特性がはっきりしていたのです。しかし会話の遅れは人間関係の遅れにおいて予想以上の課題を残しました。

 

障害が重いと思っていた次女は26歳で独立しました。一方長女は49歳で、私の方から離れました。長女の子どもたちである2人の孫にも高機能発達障害があり、12年間援助しました。

 

受け身タイプであまり障害が目立たなかった長女ですが、生活全般に渡って援助をし続けました。生活能力が低い方も多いようなので、あまり困ったら助けをもとめたらいいと思います。

 

そして私自身は診断については抵抗が強い方もいるかもしれませんが、場合によっては必要だとも感じています。

 

人によっては精神医学は自分たちとはかけ離れた世界の、普通とは違う、近づきがたい世界の話だと思われるかもしれませんが、知識として覗いて見るといいのでは、と思います。

 

一度立ち止まり、自分たちが心理的にみてどのようなものか、他者の尺度での立ち位置を考えるのはしんどいかもしれませんが、私にとっては得難い体験でした。

 

しかし、私自身はどうしても専門家と当事者・家族との間にはすき間があると感じてしまいます。この分かりにくい、かつ関わりづらい子達の親としての育ちと、困難な子育てをどう自分事として想像するのは困難だと思います。親族にも同じ様なパターンの家庭が2組おりますが、とても穏やかな生活ぶりとはいえません。

 

発達障害が多い家系の渦中にいて今の時代をいかに共生していくべきか考えあぐねています。二人しかいない孫の将来も不安が残ります。

 

しかし暗くなってもいられません。私も含めて妥当なルールを見つけて進んでいくしかありません。